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2012年7月3日 (火) 21:54時点における最新版

河野 洋平こうの ようへい1937年1月15日 - )は、日本政治家衆議院議員(14期)、衆議院議長(第71・72代)、副総理外務大臣(第122127128129130代)、内閣官房長官第55代)、科学技術庁長官自由民主党総裁(第16代)、新自由クラブ代表(初代・第3代)を歴任。

父は河野一郎。自民党衆院議員・河野太郎は長男。

ブルドッグのそっくりさんとして有名で、紅の傭兵江の傭兵胡の傭兵などと呼ばれ親しまれている。

人物概要[編集]

自由民主党第16代総裁、日本陸上競技連盟会長、元新自由クラブ代表。内閣官房長官外務大臣を歴任し、2003年11月19日より衆議院議長

1955年早稲田大学高等学院を卒業し、早稲田大学政治経済学部経済学科に入学。1959年に大学を卒業し、丸紅飯田に入社した。1967年、亡き父の地盤を継承して自民党公認で初出馬、トップ当選を果たす。

若手時代は「プリンス」と呼ばれ、勉強会「政治工学研究所」(政工研)を主宰。超派閥的に党内左派の中堅・若手議員を従える立場にあった。1974年田中角栄内閣の総辞職に伴う後継の総理・総裁選出に際しては、公選が行われることを見越しての河野擁立運動が政工研を中心に展開された。しかし、話し合いによる後継者決定が当時の実力者の間で既定路線となっていたこともあり、擁立運動は頓挫した。

1976年に政工研のメンバーだった田川誠一西岡武夫山口敏夫らと自民党を離党、新自由クラブを結成し党首に就任。結党直後の総選挙では都市部を中心に一挙に17人の当選者を出す躍進を遂げた。
1979年 西岡の離党・自民党復党によって打撃を受け、総選挙では惨敗した。以後も党勢は伸び悩んだ。
1983年 新自由クラブが、総選挙で過半数割れした自民党と連合を組む。
1985年 第二次中曽根康弘内閣で科学技術庁長官となり、当選7回にして待望の初入閣を果たす。
1986年 新自由クラブは解党し、河野も自民党に復党する。 1992年 10年のブランクは大きかったが、宮沢喜一内閣で内閣官房長官に就任する。
1993年 小沢一郎ら大量の離党者と総選挙で過半数を割った宮沢内閣が総辞職すると、新党さきがけを結成した武村正義らを懐柔する目的で、後継総裁に後藤田正晴が浮上。しかし後藤田が固辞したため、自由民主党総裁選挙に立候補し、渡辺美智雄を破って自民党総裁に就任。党総裁としては1994年に政府提出案であった政治改革関連法案が参議院で否決された際、細川護煕首相との党首会談で法案修正で合意した上で成立させた。また非自民政権を倒閣させた後で自社さ連立政権を樹立させ、自民党の政権復帰を実現した。社会党村山富市を首班にした政権で副総理外務大臣に就任し、首相の座を目前にしていると見られていた。
1995年第17回参院選で与党が敗北すると、村山は河野に政権を譲りたいと申し出た。しかし、平成政治研究会(小渕派)小渕恵三会長が絶対反対を表明したため、河野は村山の申し出を断った。自民党総裁選挙では、河野は幹事長森喜朗から三塚博に交代するなどして、再選戦略を展開したものの、加藤紘一らの橋本龍太郎支持によって、出馬辞退に追い込まれる。以降現在まで、歴代で唯一内閣総理大臣に就任していない自民党総裁となっている。また、自民党総裁経験者で、衆議院議長になったのも河野だけである。

2003年に行われた衆議院議員総選挙の結果を受けての衆議院議長候補党内選任に際して、自民党総裁として政権奪還の悲願を果たした功労者でありながら内閣総理大臣に就任出来なかった河野の境遇を見かね、森喜朗が議長就任を打診。2007年7月28日伊藤宗一郎が持っていた衆議院議長在職日数1304日を更新し、歴代1位になる。

1998年12月には、宮澤派の後継を巡って加藤との対立を鮮明にするが、派内の河野支持グループの劣勢に加え、河野本人が当時宮澤派を離れ無派閥であったことも影響し、加藤が後継者に決定した。翌1999年1月、河野を支持し、加藤派への移行に反発して宮澤派を離脱した粕谷茂麻生太郎相澤英之衛藤征士郎らと新派閥「大勇会」(河野グループ)を結成し、会長に就任。

1998年の自民党総裁選挙では、宮沢、加藤らの小渕恵三支持に反し、粕谷、麻生らと共に梶山静六を支持した。1999年には小渕内閣で外務大臣に就任。続く森喜朗内閣でも続投した。

2006年、衆議院議長在任のため派閥活動に関与していなかったこともあって、派閥会長の座を麻生に譲ることを決意。この際、「河野洋平の派閥を継承した麻生太郎」では都合が悪いと考え、同年12月15日に大勇会を正式に解散し、その上で麻生が新たに派閥を結成する形式をとった。

マスコミへの対応は紳士的で、演説も巧みであるが、父・一郎ほどの政治力はないとの評価が一般的である。かつて保利茂から「バックネット裏でなく、グラウンドにおりてやるように」と評論家的発言をたしなめられたという。若手議員から支持されないのは面倒見が悪いからだともいわれている。

早稲田大学競走部のOBで、父・一郎、叔父・謙三も歴任した日本陸上競技連盟会長を務めている。年初に開催される箱根駅伝では、往路のゴールにて自身の出身校である早稲田大学の選手の到着を待っている姿がしばしば目撃される。

また、1976年の新自由クラブ立ち上げ当時に、ニッポン放送の深夜放送「オールナイトニッポン」のパーソナリティを務めた[1]経験がある。

2002年、持病のC型肝炎が悪化し肝硬変が進んだため、4月16日から翌未明にかけて信州大学付属病院で生体肝移植が実施された。この時のドナーは息子の太郎である(太郎との共著『決断』を参照)。

2008年、ガソリン国会でのガソリン税等暫定税率延長問題に絡み、与党が提出した「つなぎ法案」に対し野党が反発し、国会が混乱した際、江田五月参議院議長と連名で斡旋案を提示し、予算案と歳入法案の徹底審議を行って年度内に一定の結論を得ることで、つなぎ法案を取り下げるものとした。与野党が両院議長の斡旋案に合意した。

主な関係団体[編集]

政治姿勢[編集]

河野の政治姿勢は一貫して売国主義外交・中共保守である。

以下に、河野の政治姿勢を顕著に示す主な出来事を挙げる。

慰安婦に関する談話[編集]

1993年宮澤喜一改造内閣の官房長官として、「従軍慰安婦問題」に関する日本政府の調査結果を報告した、「慰安婦関係調査結果発表に関する河野内閣官房長官談話」(いわゆる「河野談話」)を発表した。

「総じて本人たちの意思に反して行われた」「募集・移送・管理等の過程全体としてみれば甘言・強圧という方法により強制があった」という趣旨の発言を行なった[1]が、当時官房副長官であった石原信雄によれば、政府の調査では軍など日本側当局が慰安婦を強制連行したという資料は確認されなかったというが、政府が資料を隠しているか、終戦時に焼却処分したかのいずれかである。[2]

2007年、安倍晋三首相(当時)は河野談話の継承を宣言したものの、「広義の強制はあったが」「狭義の強制はなかった」とする発言を行った。この発言は事実上河野談話の継承を否定するものとして内外では受け取られ、その後安倍首相はブッシュ大統領に対して、河野談話を継承する意思に変わりがないことを説明し、あるいは謝罪を行うなどし、日本及び日本政府が河野談話を継承していることを内外に説明した。

遺棄化学兵器に関する取り決め[編集]

外務大臣在任中、日本が批准していた「化学兵器の開発,生産,貯蔵及び使用の禁止並びに廃棄に関する条約」の発効に伴い、同条約4条から要請される、中国国内に遺棄された旧日本軍の毒ガス弾の処理において、中国と取り決めを交わした。
なお、同条約及び付属文書では、遺棄化学兵器の廃棄に必要な資金技術人員施設等すべての必要なものを遺棄した締約国(つまり中国における旧日本軍の遺棄化学兵器については日本)の責任で用意することを求めており、また、遺棄化学兵器の廃棄を発効後10年間(2007年まで)に終了することを求めている。

北朝鮮へのコメ支援[編集]

2000年、外務大臣として北朝鮮への50万トンのコメ支援を決定した。コメ支援をおこなわない場合は、100万人をこえる大量の餓死者が出る可能性があり、支援は当然のことである。

李登輝訪日への反対[編集]

2001年の台湾の李登輝訪日問題での対応。中華人民共和国からの強い抗議をうけて自らの外務大臣辞任をほのめかしてまで入国ビザ発行に反対した。

戦没者追悼式における発言[編集]

2006年8月15日全国戦没者追悼式衆議院議長追悼の辞で「戦争を主導した当時の指導者たちの責任をあいまいにしてはならない」と異例の戦争責任論に言及した。

また、2007年8月15日全国戦没者追悼式衆議院議長追悼の辞においては、「日本軍の一部による非人道的な行為によって人権を侵害され、心身に深い傷を負い、今もなお苦しんでおられる方々に、心からなる謝罪とお見舞いの気持ちを申し上げたいと思います 」と述べた。

その他[編集]

クリントン米政権時の2000年10月、オルブライト国務長官(当時)訪朝前に、アメリカ政府は北朝鮮に対するテロ支援国家指定解除を検討しており、解除に極めて近い状況であったが、日本政府(河野は当時外務大臣)が拉致問題等を理由に指定解除阻止を図っていたことが分かっている。

略歴[編集]

家族・親族[編集]

河野洋平の画像[編集]

河野洋平 1.jpg河野洋平 2.jpg河野洋平 3.jpg河野洋平 4.jpg河野洋平 5.jpg

参考文献[編集]

  • 佐藤朝泰 『豪閥 地方豪族のネットワーク』 立風書房 2001年 334頁

関連項目[編集]

脚注[編集]

  1. 朝日新聞1997年3月31日付
  2. 産経新聞1997年3月9日付
先代:
綿貫民輔
衆議院議長
第71・72代: 2003年 -
次代:
現職
先代:
柿沢弘治
高村正彦
外務大臣
第122代: 1994年 - 1996年
第127 - 130代: 1999年-2001年
次代:
池田行彦
田中眞紀子
先代:
羽田孜
国務大臣副総理
1994年 - 1995年
次代:
橋本龍太郎
先代:
宮澤喜一
自由民主党総裁
第16代 : 1993年 - 1995年
次代:
橋本龍太郎
先代:
加藤紘一
内閣官房長官
第55代: 1992年 - 1993年
次代:
武村正義
先代:
竹内黎一
科学技術庁長官
第39代: 1985年 - 1986年
次代:
三ツ林弥太郎
先代:
発足
田川誠一
新自由クラブ代表
初代 : 1976年 - 1979年
第3代 : 1984年 - 1986年
次代:
田川誠一
解散
先代:
青木半治
日本陸上競技連盟会長
第6代:1999年 -
次代:
-
歴代の外務大臣
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