山崎拓

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山﨑 拓(やまさき たく、1936年(昭和11年)12月11日 ‐ )は、日本政治家近未来政治研究会自由民主党の石原派、旧山崎派)最高顧問。

本名は山﨑 拓(やまさき ひらく[1][2])。自身のウェブサイトおよび報道等では山崎 拓(やまさき たく)と表記される。なお、本名「山﨑拓」の「﨑」の文字にはJIS X 0208のコードが割り当てられておらず、コンピュータ上での使用に難があるため、報道などでは「崎」で代用されることが多い。また、本名の読み仮名は「やまさき ひらく」であるが[1][2]、政治家になって以降は、有職読みのように名を音読みして「やまさき たく」と呼ばれることが多い。自身が出稿した選挙公報の記事内でも「やまさき たく」の読み方を使用している。

福岡県議会議員(1期)、衆議院議員(12期)、防衛庁長官第47代)、建設大臣第57代)、自民党国会対策委員長自民党政務調査会長自民党幹事長自民党副総裁、自民党安全保障調査会長、自民党外交調査会長などを歴任。「山拓」「拓さん」の愛称で有権者に親しまれ、聴衆をひきつける演説、政治家としての高い見識、リーダーシップに定評があった[3]

来歴・人物[編集]

出生から政治家になるまで[編集]

満鉄調査部員であり後に相模女子大学学長を務める山崎進の子として、関東州大連市(現在は中華人民共和国の大連市)で生まれる。たまたま、同じ日に母方の祖父の山口慶八が、福岡県三池郡開村(現在のみやま市の一部)で炭鉱開発に成功したため、父親に生まれてきた子の名を「開」とするよう電報を打った。父親は開拓の「拓」の字を名付け、読み仮名を炭鉱開発と満州開拓を掛けて「ひらく」とした[1][2]。父方の祖父の山崎和三郎は、飯塚炭鉱を経営し、玄洋社の幹部であった。

第二次世界大戦の終戦後に帰国し、福岡県福岡市で育つ。小学校3年生の時に、片目を失明し、隻眼となる。福岡学芸大学附属福岡中学校福岡県立修猷館高等学校早稲田大学商学部卒業。付属福岡中学校の後輩に、中選挙区時代同選挙区で「拓・誠戦争」を争った太田誠一。なお、朝日ジャーナル編集長、朝日新聞編集委員などを務めた伊藤正孝とは、中学・高校・大学での同期で親友であった。学位は商学士(早稲田大学)。大学卒業後は、大手タイヤメーカーのブリヂストンで、5年間のサラリーマン生活を送る。

政治家としての経歴[編集]

1967年に福岡県議会議員に当選。当時から演説では並はずれた弁舌で聴衆を引きつけ、大いに期待される存在であった。この頃に中曽根康弘に見出され、中曽根のすすめで1969年の総選挙に保守系無所属で出馬するも落選。浪人生活[4]を経て、1972年に衆議院に初当選(当選同期に小泉純一郎加藤紘一石原慎太郎村岡兼造保岡興治瓦力三塚博越智通雄野田毅深谷隆司など)。同年輩の自民党議員の中では数少ない、非世襲の叩き上げで、防衛族として頭角を現していった。防衛庁長官建設大臣を歴任する。

1985年、中曽根首相がドイツのボン・サミットに出席した際、山崎は官房副長官として同行。中曽根はレーガン米大統領・ゴルバチョフソ連書記長・サッチャー英首相・ミッテラン仏大統領・コール西独首相と個別に首脳会談を行った。この時、山崎は会談内容を全て記録した上で編集し、同行記者団に発表する重責をこなした。なお、ブリーフィングする際には、外務官僚の手を借りずに自分で行い、中曽根の意図を汲み取って国際世論をリードする内容にすることを心掛けていた。

1990年ごろから、旧経世会主導の自民党の政治運営を批判し、当選同期の小泉純一郎、加藤紘一とともに、YKKを結成して活動していた。1995年に、橋本龍太郎自民党総裁の下で自民党政調会長に就任。1998年に、旧渡辺派から独立し、近未来政治研究会(山崎派)を結成。

1999年自民党総裁選に出馬し首相の座を狙う。総裁に選出されなかったものの小渕恵三、加藤に次ぐ51票を集め3位であった。これ以降、自民党総裁の有力候補として注目される。

2000年森内閣加藤の乱で倒閣に失敗し、加藤とともに政治生命の危機とも言われた。しかし、自民党主流派による山崎派への猛烈な切り崩し工作に遭ったにも関わらず、山崎派内の議員で山崎を裏切る者は殆どいなかった。このことから、多くの脱落者を出して派閥分裂を招いた加藤と比較して、山崎の人望や求心力は党内からも高く評価され、翌年以降の復権につながっていった。

2001年、YKKの盟友である小泉内閣が成立すると、自民党幹事長に抜擢される。小泉からは貴重な理解者として厚い信頼を寄せられ、党内基盤が弱い小泉を抵抗勢力から守る役割を担い、外交経験の乏しい小泉の貴重な補佐役としても活躍した。小泉とジョージ・ブッシュ米大統領による日米首脳会談の地ならしを行い、東南アジアや中東諸国を歴訪するなどして奔走。アーミテージ米国務副長官や盧武鉉韓国大統領とも会談している。また、アメリカ同時多発テロ事件の際には、与党3党米国テロ事件緊急対策協議会の座長として自衛隊法改正について協議する等、外交・安全保障政策の分野でも活躍した。

こうした働きぶりでポスト小泉の一角として再び首相候補に目されるようになった。2003年9月、副総裁に就任。しかし同年11月の衆議院選では落選、31年間保持していた衆議院議員の席を失い、副総裁も辞職。2004年、小泉のはからいで民間人の自民党憲法調査特別顧問および首相補佐官に就任。2005年の衆院補選に当選[5]して議席を回復し、同年の郵政民営化法案を審議する特別委員会筆頭理事として小泉の郵政民営化に尽力していたが、郵政解散の頃から小泉とは距離を置くようになる。同年、自民党安全保障調査会長に就任。これ以降、中国韓国との関係をより重視する加藤紘一や福田康夫古賀誠と連携を密にする。2006年に政権に就いた安倍晋三とは、対北朝鮮政策を巡って度々対立。安倍の外交姿勢は圧力に傾倒しており、日本の孤立化を招き、国益を損ねると批判した。

2007年1月、北朝鮮を電撃的に訪問し、行き詰まった北朝鮮の核問題や拉致問題の状況打開を図る。平壌で北朝鮮の宋日昊・日朝国交正常化交渉担当大使と会談。北朝鮮の核放棄や拉致被害者の日本帰国を迫ったが、実現には至らなかった。

2007年、安倍内閣が退陣すると、ポスト安倍に福田康夫を支持した。福田康夫内閣が成立すると、自民党外交調査会長に就任、引き続き外交や安全保障政策を中心に活動を行う。次いで麻生内閣においても再任された。自民党が大敗した第45回衆議院議員総選挙で、再び落選する。落選後も、山崎派会長職を2012年に石原伸晃に譲るまで務めた。

2010年第22回参議院議員通常選挙比例区からの立候補を目指していたが、自民党の定年制度により公認されなかった。2010年3月頃、国民新党代表の亀井静香に同党入党を前提とした内閣参与入りを要請されたが、即時拒否した[6]2012年、次の選挙には出馬せず、引退を表明した。現在は自身が設立した近未来政治研究会の最高顧問を務めている。

政策[編集]

安全保障政策[編集]

憲法9条改正を長年にわたり主張し続けている。自身の著書『憲法改正―道義国家をめざして』の中に記述のある通り[7]、条件付きの陸・海・空軍の保持を唱えている。

山崎拓の主張する新憲法試案・改正条文(安全保障):

「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、自衛権を行使する場合を除き、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇または武力の行使は、永久にこれを放棄する。日本国の主権と独立を守り、国の安全を保つとともに、国際平和の実現に協力するため、内閣総理大臣の最高指揮権の下、陸、海、空軍、その他の組織を保持する。」

外交[編集]

対北朝鮮外交[編集]

山崎は、朝鮮半島の非核化・拉致問題解決による日朝国交正常化を、自身の最重要政治課題の一つとしている。北朝鮮に対しては圧力一辺倒の外交姿勢でなく、制裁よりも対話を重視し、北朝鮮の政府関係者とも頻繁に会談を行ってきた。

2004年4月1日平沢勝栄と共に中国を極秘に訪れ、拉致問題について北朝鮮の高官と直接交渉を試みた[8]。山崎らの訪中は対北朝鮮交渉を政府間ルートに一本化するとの外交方針に反する可能性があるとして問題視された[8]救う会は山崎らの行動を「拉致問題を政治利用している」と非難した[9]

2006年6月14日自民党総裁選挙で北朝鮮制裁派の安倍晋三が最有力候補になると、その対抗馬として「『ポスト小泉』の重要課題は『日朝国交正常化だ』と福田康夫に出馬を託し、自らの出馬を見送ることを宣言したが、このときの総裁選挙に福田は立候補しなかった。11月になり、北朝鮮の核問題について麻生太郎外務大臣が「隣の国が持つとなった時に検討も駄目、話もできない、意見交換も駄目というのは一つの考え方だが、いろいろ議論しておくことは大事だ」と発言したことに対して、「北朝鮮の核開発はけしからんと言っているときに、場合によってはわが国もやるぞ、という議論は成り立たない」と非難した。

2007年9月18日の「内外情勢調査会」における講演で、北朝鮮の核実験を「核保有がはっきりしたという意味でやらせてよかった」と発言し、物議をかもした(後日、山崎は「北朝鮮の核実験を肯定するものではなく、北朝鮮が核兵器を放棄するよう全力で取り組む」と釈明している)。

2008年6月12日、安倍が山崎が会長を務める日朝国交正常化推進議員連盟が北朝鮮への制裁解除と対話路線への転換を主張していることについて、「国会議員が、交渉を行っている政府よりも甘いことを言ってしまったのでは、政府の外交交渉能力を大きく損なう。百害あって一利なしだ」と批判をすると、「圧力一辺倒は幼稚な考えで、何ら前進がなかった」と反論した。17日に、山崎が安倍に発言の撤回と謝罪を要求したが、20日に、安倍は「対話路線で拉致問題が進展しなかったことを学習してもらいたい」と発言の撤回と謝罪を拒否した。21日、山崎は「国民感情として“拉致問題が完全解決しないと後のことはどうでもいい”というような感覚がありすぎる」と発言し、拉致問題だけを取り上げて北朝鮮批判一色の日本国の世論に苦言を呈し、「北朝鮮の核問題で重要な展開がある。足の引っ張り合いをやっている時ではない」と主張した。さらに6月28日、「安倍前首相の対北朝鮮外交は犬の遠吠え。小泉元首相のように直接乗り込んで交渉しないとダメだ」とテレビ西日本の報道番組で発言し、2002年以降は北朝鮮を訪問していない安倍を批判した[10]7月24日には、拉致問題の進展がなければ北朝鮮への経済・エネルギー支援に参加しないとの日本政府の方針に対して『中国や韓国などとの関係で日本が窮地に陥る。6カ国協議での朝鮮半島の非核化実現ほど重要なものはない』と発言した。

2009年3月18日、北朝鮮が日本に向けた核ミサイル発射実験を行うことを表明すると、麻生太郎はミサイルを迎撃することを宣言した。これに対して、山崎は「阻止するためには対話しかない。北朝鮮の金英逸首相が北京に行ったこの機会が現時点では一番いい機会だ。制裁を強化しても構わないが、今まで効果がほとんどなかった。国際社会と足並みをそろえてやっていくべきだ」と、中国と連携した対話路線を行うことを求めた。

政歴[編集]

主な役職[編集]

その他[編集]

  • 2012年、同年秋の叙勲の中では最高位の旭日大綬章を受章。皇居・宮殿「松の間」で行われた親授式で、天皇から勲章を手渡された[11]
  • 1999年、第12回日本メガネベストドレッサー賞を受賞している(政界部門)[12]
  • 2005年5月21日に、郵政民営化をめぐって解散総選挙の可能性が浮上していた頃、自民党県連パーティーで「衆院解散・総選挙は小泉政権のブラフ(脅し)と言う人もいるが、解散になって一番困るのは先月当選したばかりの私だ」と、2005年4月に自分が補選で当選してきたことをあげて笑いを誘った。
  • 2003年4月22日、春季例大祭に合わせて靖国神社に参拝している。他の参拝者は橋本龍太郎古賀誠平沼赳夫二階俊博等であった。
  • 尊敬する人物は、東京裁判においてA級戦犯として死刑になった元首相の広田弘毅。山崎の母校・修猷館高校の大先輩である[13]

趣味[編集]

柔道野球囲碁が好きで、特に柔道は臆病な自分の心を奮起させるため中学から始め、最終的には六段になった。ソフトボールは地元事務所でチーム(拓サンデーズ)を組み定期的に試合をしている。また、日本ソフトボール協会の会長を務めている。囲碁はアマチュア五段。

著書[編集]

  • 『転換期の光芒―厚生政務次官日記』り-ぶる出版企画、1980年5月
  • 『転機に立つ日本の防衛』り-ぶる出版企画、1982年5月
  • 『アジア太平洋時代と日米安保 : 寄稿・講演・対談集』サンドケー出版局、1996年9月、ISBN 4914938987
  • 『2010年日本実現』ダイヤモンド社、1999年7月、ISBN 4478180245
  • 『憲法改正―道義国家をめざして』生産性出版、2001年5月、ISBN 4820117106

参考文献 関連書籍[編集]

  • 『山崎拓・全人像』黒田京平著、行研出版局、1993年2月 ISBN 4905786940

脚注[編集]

  1. 1.0 1.1 1.2 朝日新聞社「一冊の本」 ―落日燃ゆの気概を秘めて―(雑誌『一冊の本』1999年4月号 朝日新聞社)」 Fight TAKU!、2010年4月24日閲覧。
  2. 2.0 2.1 2.2 花井寛脚本、みやぞえ郁雄絵「ひらく――山崎拓青春ストーリー」『taku.net』。
  3. http://www.data-max.co.jp/2013/05/10/post_16452_ymh_01.html
  4. 一時期、シュウマイ屋を開き、シュウマイを「駅弁」として売り歩いたこともあるが、上手く行かずにたたんでいる。
  5. 古賀潤一郎が学歴詐称の責を問われ辞職。
  6. 上野央絵「亀井・国民新党代表:内閣に拓さん? 普天間問題など電話で懇願」『毎日新聞』2010年4月13日東京朝刊。
  7. 『憲法改正―道義国家をめざして』の第二部【自らの手で守る日本】の(五、新憲法の安全保障規定)に記載あり。山崎拓の公式サイト内で公開されている。
  8. 8.0 8.1 山崎、平沢両氏が訪中 拉致問題で北朝鮮と接触. 共同通信社. 47NEWS. (2004年4月1日) 2014年4月25日閲覧。
  9. “「拉致問題を政治利用」 山崎、平沢両氏に批判集中”. 共同通信社. 47NEWS. (2004年4月4日) 2014年4月25日閲覧。
  10. “安倍外交は「犬の遠ぼえ」山崎氏、対北朝鮮で”. 産経新聞. (2008年6月28日)
  11. http://www.47news.jp/CN/201211/CN2012110801001420.html
  12. http://www.ioft.jp/Concurrent-Events/
  13. http://www.taku.net/pp/jitsugen/k000.html

関連項目[編集]


外部リンク[編集]

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