山本条太郎

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山本 条太郎(やまもと じょうたろう、慶応3年(1867年10月11日 - 昭和11年(1936年3月25日)は日本実業家政治家

現在の福井県武生市の生まれ。病気のため共立学校を中退後、三井物産横浜支店に奉公。明治42年(1909年)、常務取締役。大正3年(1914年)、シーメンス事件に連座して退社。その後は事業家として再出発し、多くの会社の社長・役員を務める。

大正9年(1920年)以来、立憲政友会から衆議院議員当選5回。幹事長等歴任。党内では山崎猛ら10名前後の傘下議員を抱えていた。

昭和2年(1927年)から同4年(1929年)まで南満洲鉄道株式会社総裁。大胆な改革を行い「満鉄中興の祖」とも言われたが、張作霖爆殺事件を機に後ろ盾であった田中義一内閣が瓦解し辞任する。茶人としても知られる。


先代:
安広伴一郎
南満州鉄道社長/総裁
第10代: 1927年 - 1929年
次代:
仙石貢